自省録

2012/1/3 氷川清話3

【走った距離】  0km
【今月の累積距離】  33.7km
【天気】 くもり 
【気温】 最高 8℃、最低 3℃
【コメント】
昨日の明鏡止水の境地の説明。

まず気合と呼吸。
さらに潮目を読む。
逆潮は受けない。身をかわす。

気合と呼吸

全体何事によらず気合といふことが大切だ。
この呼吸さへよく呑み込んで居れば、
たとへ死生の間に出入しても、決して迷ふことはない。
しかしこれは単に文字の学問では出来ない。
しばしば万死一生の困難を経て初めて解る。
戦争などは、何よりよい磨練だ。
 この気合を制するといふことはえらいもので、
たとへば関ケ原の戦争を御覧。三成もなかなかの英物で、
島といふ参謀がひかへて居り、
その上、将校にも東軍に譲らないほどの豪傑が揃って居った。
それで遂に勝たなかったといふのはつまり家康にその気合を制せられて、
頭から呑み込まれてしまって居たからである。
また、明智左馬之助といふ男は、実にえらい人物で、
本能寺の変の時、
流石の光秀も最初はいくらか遅疑逡巡するところがあって、
腹心の者二、三を集めて評議をした。
すると左馬之肋は、
「評議も何もない、明日すぐにやるがよい」
と言った。
この一言で、光秀も直ちに決心したのだが、
時の英雄信長が、光秀にやられたのも、ただこの決断の力だ。
 ところで気合と呼吸といっても、口ではいはれないが、
およそ世間の事には、自から順潮と逆潮とがある。
したがって気合も、人にかゝって来る時と、
自分にかゝって来る時とがある。
そこで、気合が人にかゝつたと見たら、すらりと横にかはすのだ。
もし自分にかゝつて来たら、油断なくずんずん推して行くのだ。
しかしこの呼吸が、いはゆる活学問で、とても書物や口頭の理窟ではわからない。


逆潮の身のかわし方

活学問

俗物には、この妙味が解らないで、理窟づめに世の中の事を処置せうとするから、
いつも失敗のし続けで、さうして後では大騒ぎをして居る。
実に馬鹿げた話ではないか。
おれなどは、理屈以上のいはゆる呼吸といふものでやるから、容易に失敗もせぬが、
万一そう言ふ逆境にでも陥つた場合には、
ぢつと騒がずに寝ころんで居て、また後の機会が来るのを待って居る。
そしてその機会が来たならば、透さずそれを執まへて、
事に応じ物に接してこれを活用するのだ。
つまり、これが真箇の学問といふものさ。


雑念、妄念を捨てる。
今に集中する。
取り越し苦労はしない。

忘れ去ることの必要

 人は何事によらず、胸の中から忘れ切るといふことが出来ないで、
始終それが気にかゝるといふやうでは、なかなかたまったものではない。
いはゆる座忘といって、何事もすべて忘れてしまって、
胸中かつ然として一物を留めざる境界に至って、
初めて万事万境に応じて、横縦自在の判断が出るのだ。
しかるに胸に始終気掛りになるものがあって、
あれの、これのと、心配ばかりして居ては、
自然と気がうゑ神が疲れて、
とても電光石火に起り来る事物の応接は出来ない。
全体、事の起らない前から、
あゝせうの、かうせうのと、心配するほど馬鹿げた話はない。
時と場合に応じてそれぞれの思慮分別は出るものだ。
第一自分の身の上に就いて考へて見るがよい。
誰でも初め立てた方針通りに、きちんとゆくことが出来るか、
とても出来はしない。
元来人間は、明日の事さへ解らないといふではないか。
それに十年も五十年も先きの事を、劃一の方針でもってやらうといふのは、
そもそも間違ひの骨頂だ。
それであるから、人間に必要なのは平生の工夫で、
精神の修養といふことが何より大切だ。
いはゆる心を明鏡止水のごとく磨ぎ澄ましておきさへすれば、
いついかなる事変が襲うて来ても、
それに処する方法は、自然と胸に浮んで来る。
いはゆる物来りて順応するのだ。
おれは昔からこの流儀でもって、種々の難局を切り抜けて来たのだ。
 それゆゑに人は、平生の修行さへ積んでおけば、
事に臨んで決して不覚を取るものでない。
剣術の奥意に達した人は、決して人に斬られることがないといふことは、
実にその通りだ。
おれも昔親父からこの事を聞いて、ひそかに疑って居たが、
戊辰の前後、しばしば万死の途に出入して、初めてこの呼吸が解った。
かの広島や品川の談判も、畢竟この不用意の用意でやり通したのさ。


無念無想。

大胆に無用意に

それからまた、世に処するには、どんな難事に出会っても臆病ではいけない。
さあ何程でも来い。
おれの身体が、ねぢれるならば、ねぢつて見ろ、
といふ了簡で、事を捌いて行く時は、
難事が到来すればするほど面白味が付いて来て、
物事は雑作もなく落着してしまふものだ。
なんでも大胆に、無用意に、打ちかからなければいけない。
どうせうか、かうせうか、と思案してかゝる日には、もういけない。
むつかしからうが、易からうが、そんな事は考へずに、
いはゆる無我といふ真境に入って無用意で打ちかゝって行くのだ。
もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、決して間断があってはいけない。
世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまふから、
大事が出来ないのだ。


状況に飲み込まれない。
死中生有り 生中生無し。

余裕と無我

 人には余裕といふものが無くては、とても大事は出来ないヨ。
昔からともかくも一方の大将とか、一番槍の功名者とかいふ者は、
たとへどんな風に見えても、その裏の方から覗いて見ると、
ちゃんと分相応に余裕を備へてゐたものだヨ。
今の人達に、この余裕を持つてゐるものがどこにあるか。
人にはずいぶん沢山あるやうに見える世の中だけれども、
おれの眼には、頓と見えないヨ。
皆無だヨ。
それを思ふと西郷が偲ばれるのサ。
彼は常に言って居たヨ。
「人間一人前の仕事といふものは高が知れる」
といってゐたヨ。
 どうだ。余裕といよものは、こゝだヨ。
いくら蚤捕眼で、天下の大機を見たとて、観えるものではないヨ。
いくら物事に齷齪して働いても、仕事の成就するものではないヨ。
功名を為うといよ者には、とても功名は出来ない。
きっと戦に勝たうといふものには、なかなか勝戦は出来ない。
これらはつまり無理があるからいけないのだ。
詮じつめれば、余裕がないからの事ヨ。
 君らには見えないか。
大きな体をして、小さい事に心配し、あげくの果に煩悶して居るものが、
世の中にずいぶん多いではないか。
駄目だヨ。
彼らには、とても天下の大事は出来ない。
つまり、物事をあまり大きく見るからいけないのだ。
物事を自分の思慮の裡に畳みこむ事が出来ないから、
あの通り心配した果てが煩悶となって、寿命も何も縮めてしまふのだ。
全体自分が物事を呑み込まなければならないのに、
かへつて物事の方から呑まれてしまふから仕方がない。
これもやはり余裕がないからの事だ。
 物事をするにも、無我の境に入らなければいけないヨ。
悟道徹底の極みは、ただ無我の二字にほかならずサ。
いくら禅で錬り上げても、なかなかさうは行かないヨ。
いざといふと、たいていの者が乱れてしまふものだヨ。

切りむすぶ太刀の下こそ地獄なれ
          踏みこみ行けば後は極楽

とは昔剣客のいった事だ。
歌の文句は、まづいけれども、
無我の妙諦は、つまり、この裡に潜んで居るのだヨ。
 余裕、思慮、胆力などいっても、しかしこれはその人の天分だヨ。
天分といふものは、争はれないものだ。
おれも十七、十八、十九、血気盛りのこの三年の間、
撃剣の修業をした時に、いろいろ禅で錬って見たがの、
おれの修業は、大層役に立ったヨ。

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by totsutaki2 | 2012-01-03 23:05 | 読書

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