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自省録

2013/10/22 蜂谷彌三郎 望郷2 ラーゲリ(強制収容所)

【走った距離】  5.82km
【今月の累積距離】  234.43km
【天気】 晴れ 
【気温】 最高 22℃、最低 17℃
【体重】  64.7kg
【コース】
淀駅~会社
【コメント】
蜂谷さんはスパイと知らずに助けた日本人に裏切られ、
無実の罪で日本人スパイとして、収容所に収監された。
そこにはヴィクトール・フランクルさんの体験したアウシュヴィッツと同じような
極限の生活があった。

取り調べ

 裁判が始まるまで厳しい取り調べを受けました。
そのやり方も独特でした。
ソ連では拘束した人間をすぐに取り調べたりはしません。
一か月以上放っておいて、できるだけ腹をすかせるようにするのです。
朝食は水のように冷たい少量のスープと一切れの黒パンだけ。
昼はカーシャというお粥のちょっと固いようなものを匙に五、六杯。
夕食はなし。一日二食です。
それ以外に、朝に柄のついたコップー杯の水が与えられます。
そのコップの半分の水を口に含んですすぎ、
すすいだ水を手に戻して顔を洗い、
手拭いの代わりに着ているシャツの端で顔を拭きます。
残りの半分の水は、少しずつ飲んで喉を潤すのに使うのです。
 こういう生活を一か月も続ければ、あまりの空腹から取り調べに行くときも
廊下の壁を手で支えなければ歩けないような状態にまで衰弱してしまいます。
しかし警護兵はそれを許さず、両手を後ろに組めと言って自動小銃で突っつきます。
しかたなく肩を使って壁を支えにしようとすると、
真っ直ぐに歩けと言って足元を蹴ります。すでに人間扱いではありませんでした。
 取り調べは、いつも午後十一時ごろから始まりました。
夜明け近くまで続くことも珍しくはありませんでした。
空腹に加えて睡眠不足の状態にされるのですから、これはたまりません。
人間、否、生き物は食欲と睡眠の制限を受けると意識が乱れてしまうのです。


他人を構わない

 どうせ死んでしまう人間だろうと思われたのか、誰一人声をかけてくれませんでした。
同胞なのにずいぶん冷たいものだとそのときは思いました。
 しかし、あとになって冷静に振り返ってみると、違う考えが浮かんできました。
あのときは全員が自分だけはなんとか生き延びたいと思っていたのです。
人の話など聞いている余裕もなかったのでしょう。
それを求めるのは甘えすぎていたかもしれない。そう思うようになりました。


家族の幻影

 その収容所では、食事をもらうには自分で食堂に行って、
食事の時間に自分の名前を確認してもらう必要がありました。
しかし、私は歩いて食堂まで行くことができませんでしたから、
一週間ほどは部屋から出られず、したがって何を食べていたか覚えがなく、
水ばかり飲んでいたように思われます。
 そのころが一番苦しかった時期です。
トイレに行くのにも四つんばいで、いも虫同然のもがき方でした。
もうだめだと何度も思いました。目をつぶると母の姿がすっと見えるのです。
はっきりとは見えません。うっすらと見える。しばらくすると、今度は妻の姿が見えました。
それから乳飲み子がすうっと私の前を通りました。
幻を見たのです。
 「これで見納めだなあ。もうおしまいだ。もういつ死んでもいい」
 そう思いました。泣こうにも涙も出ません。涙すらも涸れ果ててしまって、
気抜けしたような感じでした。


遺体

 亡くなる人たちは皆、枯れ柴のように骨と皮だけになって、
手は虚空をつかむようにして死んでいきます。
やせ衰えた遺体は裸にされ、四体五体と集まると馬橇で通用門の外に
運ばれていきました。
 ある日、部屋の窓から外を見たら、看守が薪割りのようなもので
遺体の頭をポンポンと殴っていました。
なんであんなことをするのかと聞くと、生きているか死んでいるかを
調べているのだというのです。
カチカチに凍って土気色をした枯れ木のような死体の頭を殴ってまで
生死を確かめなければならない。
そんな非人道的なソ連のやり方を見て、
人間はここまで残酷になれるのかと思ったものです


神仏にすがる余裕もない

 ラーゲリに収監されていたころ、私はほとんど死と隣り合わせにいました。
生と死のギリギリの淵に、いねば極限の状況に陥っていたと思います。
体の具合が悪くて作業に出られずに厳しく叱責されたことは話しましたが、
ソ連では、特に政治犯の労働拒否(サボタージュ)には体罰が科せられます。
ホロードヌイカーメラ(冷たい部屋)と呼ばれる懲罰監房に入れられるのです。
私にもあの独房に一週間人れられた経験があります。
狭い、暗い、寒い、ちょうど墓穴のようなところに押し込められ、私はただ放心状態でした。
本能的に呼吸をするだけで、呼吸が止まればすべてが終わる。
それがすべてで思考力さえなくなってしまいます。
娑婆のことを思えるのはまだ生きる力があるからです。
人間、あのような極地にまで追いつめられると神様も仏縁も何もありません。
心はすっかり乾ききって、ただ死を待つだけしかできません。
 目を閉じて瞑想にふけると、ときどき母や妻の面影が他人のように通り過ぎていきました。
生まれたばかりの乳飲み子の娘の久美子の顔がスーツと行き過ぎたりしました。
涙は一滴も出ません。ため息も何も出ません。
ただ目前にある刹那刹那の出来事を切り抜けていくことがすべてでした。
神様や仏様を思う心の余裕もありませんでした。
 私は無神論者ではありませんが、宗教心というものは多少なりとも精神が安定し、
生活状態が人間的になったときに出るものなのかもしれません。
あのラーゲリでの体験は、それとは全く異次元のものであったと思います。
あまりにも現実が苛酷であったため、救いを求めるという行為そのものが
考えの外にありました。
ただ、その現実、その刹那を切り抜けることしか考えられませんでした。
 四十日間の独房生活も体験しました。
独房には板が敷いてあって、トイレ代わりの桶が置いてあるだけで、
ほかには何もありません。
窓もなく、外の風景も誰かの顔も見ることはできません。
ここで死んでしまいたいと思いました。
けれども、もしかしたら生きることができるかもしれないという、欲というのか、
希望というのか、何と表現すればよいかわからないのですが、
あえて言えば生に対する本能的な執着だけで生きていたのです。
 そのときに神や仏は信じられませんでした。
私は何も悪いことはしていない。それなのになぜこんな目に遭うのか。
神や仏を信じたところでソ連は私をスパイだと決めつけているのですから、
現実にはどうにもならないのです。
 取り調べは刑が明けてからもソ連が崩壊するまで続きました。
私か答えるのはいつも同じ内容です。
もし間違った答えをしてしまったら、そこで私は破滅してしまう。
ですから、同じ答えを同じように繰り返していく。
それを半世紀、押し通してきました。

2013/10/22 蜂谷彌三郎 望郷2 ラーゲリ(強制収容所)_b0217643_22541151.jpg






by totsutaki2 | 2013-10-22 22:54 | 心の使い方

市民ランナーの市井の日常。 日々の出来事、感動を忘れないために
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