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自省録

2012/2/22 銀の匙3

【走った距離】  8.53km
【今月の累積距離】  240.54km
【天気】 雨 
【気温】 最高 12℃、最低 6℃
【体重】  65.1kg
【コース】
淀駅~会社
【コメント】
16歳になった主人公が帰郷した伯母さんを訪ねる。
優しく、美しい描写。
これまで読んだ中で最も愛しい文章かもしれない。

 いい道づれのあったのを幸いに
伯母さんが先祖代々の墓参のため、
またなにがなし生国の古い思い出が心を動かして
ほんのしばらくのつもりでこちらをたったのは何年か前のことであった。
それが先へ行きつくとまもなくどっと煩いついて
一時はいけないとまでいわれたのが、
寿命があったとみえてどうぞこうぞ本復はしたものの
年が年ゆえひどくからだが弱ってもう出てくることができなくなり、
自分でもあきらめて遠い縁家の留守番に頼まれることになった。
 かわいい子には旅をさせろという昔風な父の思いつきから
十六の年の春休みに私は持って生まれた憂鬱症をなおすために
京阪地方へ旅行をさせられた。
それで病気がなおったかして私は家から呼びもどされるまでも
いい気に遊びまわってたが、
その帰りにいよいよのお暇乞いのつもりで伯母さんのところをたずねることにした。
伯母さんの往んでるのは「お船手」といって
旧幕時代に藩の御射手組のいたという川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であった。
で、なかなかちょいとには家がしれず、
日の暮れるまでたずねあぐんだあげく
とある荒物屋のむかいのお寺のような門のなかへはいっていった。
そこには人が住んでるのかいないのか、
古びきってがらんとして、草一本もないかわりには木も一本もなく、
赤裸でからからしている。
私はあけ放しの上がりロに立って二三べん声をかけてみたがいっこう返事がない。
知らない土地ではあり、夜にはなるし、
心細くなってあたりを見まわしたときに
左ての庭ともいえない二坪はどのあき地との境にある小さな木戸が目についた。
そうっとあけてのぞいてみたら
きたないばあさんがひとり暗いのにあかりもつけず
縁先で海老みたいにこごんで縫いものをしている。
私は案内もなくよその庭先へはいったのに気がとがめて思わず一足あとへさがったけれど、
もうほかにたずねるところもないので木戸のうえから身をかがめて
 「ごめんなさい」
と声をかけた。
ばあさんは知らん顔して針をはこんでいる。
 「ごめんなさい」
 つんぼなのかしら。荷物をさげてる手はさっきからぬけそうなのだ。
たまらなくなって
 「少々伺います」
といいながらずっとはいったらやっと気がついたらしくひょいと顔をあげた。
暗いのでよくは見えないが、
老いさらばって見るかげもなくやせこけてはいるが、
それはたしかに伯母さんだった。
私はただもうはっとしてその顔を見つめていた。
伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、
縁側に手をつきかしこまった形になって
 「どなた様でございます。この節ちょっとも目がみえませんで」
 「…………」
 「耳もえろ遠なりましてなも」
 「それでひと様に御無礼ばっかいたします」
 こちらがいつまでも黙ってるものですこしのりだすようにして
 「どなた様でございます」
とくりかえす。
私は胸いっぱいなのをやっとの思いで
 「私です」
といった。
それでもまだ
 「どなた様でいらっせるいなも」
といってしげしげとひとを見あげ見おろししてたが
なにはともあれ心やすい人にはちがいないと思ったらしく、
立ちあがって奥の火鉢のそばにあった煎餅ぶとんを仏壇のわきにしいて
 「さあどうぞおあがりあすばいて」
と招じいれるように腰をかがめた。
そのあいだに私はようやく気をおちつけて笑いながら
 「伯母さんわかりませんか。□□です」
といったら
 「え」
といって縁先へ飛んできてしばらくまたたきもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく、
涙をほろほろとこぼして
 「□さかや。おお おお □さかや」
と言い言い自分よりはずっと背が高くなった私を
頭から肩からおびんづる様みたいになでまわした。
そうしてひとが消えてなくなりでもするかのようにすこしも目をはなさず
 「まあ、そのいに大きならんしてちょっともわかれせんがや」
といいながら火鉢のそばにすわらせ、
挨拶もそこそこにもっとなでたそうな様子で
 「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで会えんかしらんと思っとったに」
と拝まないばかりにして涙をふく。
伯母さんは古ぼけた行灯に火をともして
 「ちょっと待っとっとくれんか、ちょっとそこまでいってくるに」
といって足もとのわるいのをこぼしこぼし縁側からいざりおりてどこかへ出ていった。
私はひとりでぼつねんとしながら これが見おさめだな と思った。
そして予想以上の伯母さんの衰えよう、
知らぬまに自分が大きくなってたこと、
昔のことなど考えてるうちにとことこと足音がして、
伯母さんはひとりふたりのしらない人をつれてきた。
それは今生きのこってる伯母さんの古なじみで、
みんな近所に住んでお互いに話し相手になってるのだという。
伯母さんはうれしまぎれに前後の見さかいもなく
 「東京から□さがきたにちゃっといでへん来てちょうだえんか」
といって呼び集めてきたのである。
これらの用のない、気楽な、気のいい人だらけ
つねづねいやになるほどきかされてる「□さ」とはどんな子かしら
という多少の好奇心をもってやってきたのだが、
その評判の「□さ」もやっぱりあたりまいの子供でめるのをみ、
親切にもまた家へとってかえして
砂糖をたっぷり入れたもろこしせんべいの火にあぶればくるくるねじくれて
手におえないやつをたくさんもってきて焼いてくれた。
私が飯まえなのに気がついた伯母さんは
みんながかわりに行こうというのをそれが自分の幸福な特権であるかのように剛情をはり、
定紋つきの小田原提灯をさげて菜を買いに出ていった。
そのあとで私は人たちから 
この家の女主人は娘の嫁入り先へもうながいこと手伝いにいってるのを
伯母さんがひとりで留守をしてるということ、
厄介になるのが気がせつないといって見えない目で家の仕事をしてるのだということなど
きいてるうちに伯母さんは息せききって戻ってきて台所に豆らんぷをつけ、
ことことと晩飯のしたくをしながら東京のだれかれの様子をたずねたりする。
みんなはいいころあいをみて帰っていった。
伯母さんは
 「こんなとこだでなんにもできんにかねしとくれよ」
と申し訳なさそうにいって、大きなすし皿を私の膳のそばにおき、
こんろにかけた鍋のなかからぽっぽっと湯気のたつ鰈を煮えるにしたがってはさんできて 
もういらない というのを
 「そんなことはいわずとたんとたべとくれ」
といいながらとうとうずらりと皿一面に並べてしまった。
気心転倒した伯母さんはどうしてその歓迎の意を示そうかを考える余裕もなく、
魚屋へいってそこにあった鰈を洗いざらい買ってきたのであった。
私は心からうれしくもありがたくも二十幾匹の鰈をながめつつ腹いっぱいに食べた。
 伯母さんはあとでさわりはしないかと思うくらいくるくると働いて
用事をかたづけたのちひざのつきあうほど間ぢかにちょこんとすわって、
その小さな目のなかに私の姿をしまって
あの十万億土までも持ってゆこうとするかのように
じっと見つめながらよもやまの話をする。
私は そんなに目がわるいのに仕事なんぞしないでも といってさんざとめたけれど
 「なんにもせずとひと様の御厄介になるが気がせつないで」
といってどうしてもきかない。
私は伯母さんが家にいたじぶんのことを思いだし、
きたない針山から一本のもめん針をぬきとってあしたの仕事のために糸をとおしておいた。
で、疲れていいるし、伯母さんのからだのことも気づかってまもなく床についたが、
伯母さんは お阿弥陀様に御礼を申しあげる といって、
お仏壇のまえに敬虔にすわって
見おぼえのある水晶の数珠をつまぐりながらお経をあげはじめた。
ちらめく蝋燭の先に照されて病みほうけたからだがひょろひょろと動くようにみえる。
四王大清正の立ち回りをしてくれた伯母さん、
枕の引き出しから目ざましの肉桂俸をだしてくれた伯母さん、
その伯母さんは影法師みたいになってしまった。
伯母さんはようやくお経をすませ、
お仏壇の扉をたてて隣の床にはいりながら
 「いつやらひどう煩った時はまあこれがこの世の見納めかしらんと思ったに、
寿命があったとみえてまたこうやって娑婆ふたげになっとるが、
この年まで生きたでいつお暇してもええと思って
いつも寝るまえにはおひざもとへお招きにあずかるようにお願い申しては寝るが……」
 私が夜着をかけるのをみて
 「寒いことないかえ、風ひいとくれるとどもならんが」
 「…………」
 「朝日がさめるときいが おお おお また命があったわやあと思ってなも…」
 話はいつになっても尽きそうになかったが私はほどよくきりあげて眠りについた。
私たちは互いに邪魔をしまいとして寝たふりをしてたけれども二人ともよく眠らなかった。
翌朝まだうす暗いうちにたった私の姿を
伯母さんは門のまえにしょんぼりと立っていつまでもいつまでも見おくっていた。
 伯母さんはじきになくなった。
伯母さんはながいあいだ夢みていたお阿弥陀様のまえにすわって、
あの晩のような敬虔な様子で御礼を申しあげてるのであろう。
2012/2/22 銀の匙3_b0217643_2305132.jpg






by totsutaki2 | 2012-02-22 23:15 | 読書

市民ランナーの市井の日常。 日々の出来事、感動を忘れないために
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